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脱・底辺 100の法則

脱・底辺思考! 底辺の生活を見つめ、底辺から脱するためにはどうしたら良いかについて解説する。

底辺

4 10月

底辺は現状維持を望む


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トランプ政権になって時代はより競争が加熱するようになった。先進国はより先鋭化し、後進国も自分たちの食い扶持を稼ぐために必死に仕事を模索する時代となりつつある。


その中で現状維持に甘んじている者たちがいる。そう、賢い諸氏はお気づきの通り、その者たちを『底辺』と呼ぶ。


少子高齢化の中で社会保障費がさらに嵩み、個人への大幅な増税が繰り返される中、法人税の減税の名の下、私たちの資産が海外ファンドに奪われつつある。底辺はその渦中で、ただ指をくわえて文句を垂れ続ける。


それらの中には高齢者も少なくない。


人口比率で考えると高齢者の底辺が急激に増加しつつある。数年前、大阪都構想が高齢者の猛反対で潰されたが、その理由を聞くと「新しいことをしなくても生きていけるから」と呟く者がいた。けだし底辺の本音と言うべきだろう。


底辺は現状維持を好む。親から受け継いだ田畑や職をだらだらと続けるだけで、自らその領地を拡大しようとしない。結果、市場が先細りになればただグダグダと文句を垂れてお互いにキズを舐め合うばかりだ。


世の中には田畑を持たない者がいる。筆者の友人で、30代前半、経営コンサル系の社長がいる。彼とは20代の頃に知り合ったが、生まれは小さな団地で、教育環境などとは程遠い、人が聞けばもしかしたら眉を潜めるかもしれない地域である。そして彼の身内は生まれながらに難病を抱えていた。


しかし彼は生まれながらにして背負ったハンディキャップを自らの責任とし、苦しい中で日々を生き延び、かつ自分の身内をどうしたら治せるのか、煩悶に煩悶を重ね、奨学金で一流の大学を出、自力で会社を興し、何度も人の裏切りに遭って辛酸を舐めながらも年々大規模に拡大を続けていっている。


彼は家族の病と同様に、同じ病で苦しむ人々を救える世の中を築きたいと常に口にしてはばからない。


一方、底辺はどうであろう。自分以外の何者にもこれっぽっちも目を向けない。他人には口うるさく、自分にはだらしなく、与えられた現状にひたすらしがみつくだけである。



時代の変化によって自らの資産価値に危機感を抱いたのであれば、今の世の中に対してどう戦えば良いのか必死で考え抜かねばならない。行動し、失敗し、また立ち上がり、そして戦って生き延びねばならない。文句を垂れるヒマなどどこにあるのだ。


自分の行動は自分で責任を取る。そんなことは当たり前のことだ。責任が取れないのであれば黙って口をつぐみ、下を向いていればいい。


あなたがもし、今なんらかの苦みを抱えているのであれば、頭を使って対処法を考えなければならない。さもなければずっとそのままだ。


先に述べておけば思いついた対処法が10個あれば、そのうち少なくとも8つは失敗するだろう。それで大恥をかくこともあるかもしれない。長く残る心の古傷となるかもしれない。


だが、それ以外に道はない。戦い続ける者を笑う者こそが底辺の証だからだ


10試したうちの残り2つ、10試してだめなら100試したうちの、もしかしたらたった1つの成功事例を繰り返してゆく。そうすれば、2年後、3年後、彼らはもはやあなたをあざ笑うことができなくなる。


うそだと思うのであれば愚直に試してみるといい。数年もすれば底辺たちは遥かな雲下より、既に小さな点のように遠く、高みに至ったあなたの姿をときおり仰ぎ見る。


底辺たちはあなたのことをもはや、いくら手を伸ばしても到底たどり着けない者として、今日も脇目もふらずに奮闘し続けるあなたの姿を、ただ黙って畏敬の目をもって見つめることになるだろう。

18 9月

底辺は自他の区別がつかない

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底辺が集う場所で花が咲く話題には一定のクセがある。赤ちょうちんの居酒屋にでも入ってみるがいい。100軒いけば100軒とも、そこに集う底辺の話題は政治・スポーツ、そして下ネタと決まっている。

やれ自民党のここが悪いだの、他国の問題がどうだの、選手の体調がどうだのと並べ立てた挙げ句、下ネタに走るのは一種の慣例とも言える。

下ネタはその人間の程度を直接表すバロメーターであるからともかく、なぜ底辺は政治やスポーツを好むのだろうか。政治であればそこに不満があるから、スポーツなら応援しているから、と思う人もいるかもしれない。しかしそれは間違いだ。底辺が政治とスポーツを好んで口にするのは、何を並べ立てようが責任を取らないで済むためだ。

底辺は自他の区別がつかない。たとえば会社の同僚や上司の中には、他人のプライベートまでくちばしを挟んでくる底辺もいることだろう。しかしそれは責任が取れる言葉だと言えるだろうか。

中には例外もあるだろうが、一流の政治家やスポーツ選手が年中そこいらの底辺サークルだのに好んで顔を出すだろうか。たとえ酒にしても、一流のスポーツ選手などは会員制のバーなどを使うことがほとんどだろう。

その理由は底辺の集まる場所にスポーツ選手がいけば、やれお前の打ち方はこうすればいいだの、お前の筋肉の付け方はここが悪いだのと、一切責任を負うことなく底辺どもが言いたい放題始まるからだ。そして万一そんなノイズを聞き入れてしまった日には、底辺は鼻高々で生涯自慢することだろう。もちろんそれで選手が失敗すれば、素知らぬ顔でおしまいである。


■言うのはいいが、どう責任を取る?


自他の区別とは責任の所在を明らかにすることだ。スティーブン・コヴィーの「7つの習慣」であれば、自分が影響を与えられる範囲にのみ終始して生きていく「影響の輪」が責任の範囲である。アドラーであれば「課題の分離」として、物事の結末を見通して誰が責任を負うのかをきっぱり割り切ることである。

もちろん筆者も不完全な人間であり、ときに他者から価値ある助言を頂くこともある。しかしそれは自分が仰ぎ見る価値のある立派な人たちと会ったときがすべてだ。少なくとも底辺の集う場で何かを学べたことは一度もない。

そしてそのような底辺が集うところほど、こちらのプライベートに口を挟んでくることが多い。ただし、そのようなとき自分は「言っていることはわかりましたが、なにか起こった際、その言葉にどう責任を取るのですか?」と言うようにしている。

そう述べると、底辺は面食らった顔をするか、苦虫を噛み潰した顔をするかでそれ以上はまず何も言ってこない。底辺は痛みを嫌う弱虫ばかりだからだ。

もちろん世の中には他人に責任のみを押しつけて自分だけが甘い汁をすすろうとする悪人がごまんといる。そのような者よりは、主観的な善意で口だけの助言を挟もうとする底辺の方がまだいくらかマシだ。

ただし、責任も取れないにも関わらず、相手に一方的にアドバイスをした場合、後で徹底的に追求され、思いもよらない莫大な責任を負わされる覚悟もしなければならない。

周囲や他者の幸福に貢献することはとても大切なことだ。しかし口だけではなく、実が伴わないものは単なる迷惑であり、周囲からの評価が下がることは肝に銘じておくべきであろう。

17 7月

底辺は認識の幅が狭い

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■インプットの幅が狭いと変化できない

底辺の話はつまらない。インプットの幅がとても狭いからだ。

インプットの対象というものはとても大切だ。
朝から晩まで2ちゃんねるのまとめサイトを眺めていれば、入ってくる情報はそのレベルに即したものに限られる。さらにその中から興味のある記事だけを読んでいれば、それは自分と同じような方向性の人間が自分向けにカスタマイズした情報をインプットするだけに留まる。つまり、まとめサイトと同質化していく底辺となると言うことだ。これは付き合う人間でも、周囲の環境でも同じことが言えるだろう。

またこれは経験においても同じだ。経験というものは無二のものだ。たとえばオーストラリアの絶壁でロッククライミングに挑んだものの、標高数百メートルのところで大けがをしてしまい、その日は救助を待ちつつ夕暮れを眺めたというような話題であれば、それは聞く側にとっても愉快な時間を送れるものだ。


■感動をもたらす経験と単なる自分語りは違う

このような感動はときに相手に変化を促す。筆者がスキューバダイビングを始めたきっかけも、友人が海中で無音に包まれながら太陽を見上げる体験を赤裸々に語ってくれたからだ。

一方、残念ながら底辺の体験というものは大抵が似たり寄ったりのものばかりだ。中学生のときに誰とケンカしたと言うような武勇伝を50歳になっても平気でしたりする。そしてその話題を喜ぶのは同じような系統の底辺か、もしくは語っている自分だけだったりするものだ。

もちろん同質化の中で、自分だけのオリジナリティを発揮できるほど差別化が図れるのであれば状況を打破することもできるだろう。ケンカで負けたことをきっかけに武道の門を叩いて厳しい修行に明け暮れていたところ、道ばたで人を襲っている暴漢を捕まえたと言うのであればそれは一聴に値するかもしれない。

しかし底辺は基本的に受け身であり、垂れ流しの中での好みの情報をインプットすることはあっても、そこから周囲にアウトプットすることはおろか、自分なりの独自性を発揮できる可能性は限りなく低いだろう。


■社会に価値を提供する

底辺は誰にも受け入れられない自分の価値を必死にアピールするに留まる。しかしそんなものは誰も受け入れない。底辺を脱出したいのであれば、社会と多くの人々が喜んでくれるアウトプットをどこまでできるかにかかっていると言えるだろう。

16 7月

底辺は目先のことしか考えない

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■目先のうんちくは役に立たない

インターネット内ではライフハックが人気だ。

それは素早く安眠できる方法だったり、ネット通販でお安くまとめ買いする方法だったり、はたまた蚊に刺されない方法だったりとさまざまだ。

「ライフハック」と名付けられているが、このような類は90年代の初頭から「ハウツー本」などとして人気があった。おばあちゃんの知恵袋のようなものだろう。

しかし、これらのライフハックが本当に人生の役に立つかと言えば、ほとんど役に立たないのが実情だ。テレビのクイズ番組で垂れ流されるうんちくを覚えている人はほとんどいないだろう。

底辺は雑学を好む。目先のことしか考えられず、物事を体系的に捉えられないからだ。だから整理できていない知識であっても、目先で効率良く物事をこなせるようになるものに飛びつく。


■成功する人はライフハックにとらわれない

一方、成功する人間はライフハックなどにほとんど気を留めない。時間の価値をよくわかっているからだ。

同じスポーツであっても、たとえば底辺はジョギングのための人気ウェアを知っていたと思えば、ボーリングを上手に投げる手の使い方を知っていたりもする。しかし、では底辺がジョギングを継続していたり、ボーリングが上手なのかといえばそんなことはない。聞きかじりの適当な知識に過ぎないからだ。

かたや成功する人間は、たとえばボルダリングであれば、ウェアから効率的な身体の使い方、筋肉の休ませ方まで深く体系的に学んでいる。書籍で学ぶことはもちろん、時間の代わりにお金を払って専門家に習う者も多い。

これは人生においても同じだ。底辺は目先のことしか考えられないから、朝からパチンコ屋に並ぶ。成功する人間はその間、淡々と勉強したり資格を取ったりする。


■枝葉ではなく幹を見よう

目の前のことを処理できると言うのは気分の良いものだ。目先の問題を効率よくこなしていけるのであれば、相応の成果がすぐに帰ってくるからだ。しかしそれらは問題の本質からはほど遠い。

人生と経営は似ている面がある。何のためのこの社会に自分は生きているのか。また自己分析を通じて世の中にどう貢献できるのか。そしてその貢献の方法として、今自分はどうなっているのか。成功する人は、ここまで辿った上ではじめて目先の問題に取り組んでゆく。

底辺は枝葉末節の枝葉ばかりを見つめ、自分の人生と言う、肝心の幹を見据えることを忘れているのである。

14 7月

底辺は自分を憐れむ

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■苦しみは誰もが抱えるもの

人生は思い通りにはいかない。これはあらゆる人間がそうだ。

一般的な国民の生活は日を追って苦しくなりつつある。1994年のGDPを100%とすると2016年は88%まで落ち込んでいる。それに加えて社会保険料のさらなる増加や定年退職の年齢延長の義務化、消費税の増税など、あらゆる要素に不安は尽きない。

しかもその税金は日々、オリンピックエムブレムのような利権に垂れ流され続けている。一部上場企業の会社員でもその苦しみは変わらない。

某企業の社員は、取引先の無茶振りのせいで自分は毎日終電帰りなのに、定時帰りの上司はその取引先から目の前でキャッシュバックを貰っているといつもこぼしている。

日々の生活や人間関係でも「なぜ自分だけがこんな目に」と思うことはあるだろう。いじめや暴力沙汰、筋の通らないマウンティングや嫌がらせに巻き込まれることも多いはずだ。

ときには心に長く傷が残ることもあるだろう。


■泣き言をぼやく底辺

しかし、である。
そんなことは誰もがそうだ。

底辺は憐れみを欲する。

以前、飛行機の座席で傍らに座った男に話かけられたことがある。
小さな事業所の社長だった。

はじめのうち、彼は旅行の話題で上機嫌だったのだが、適当に相槌を打っていたところ、なぜかだんだんとテンションが落ちていき、

「私は60歳だ。もう人生は終わりだ」
「私の言うことを社員は誰も聞いてくれない」
「取引先のせいで大変な目に遭った」
「景気が悪いのに税金ばかり取られる」

と始まった。

私は途中で話を打ち切り、そこで背を向けた。
それはきっと本当のことなのだろう。
だが、だからなんだと言うのだ。

底辺は自分を憐れむ。鬱映画のエンディングのように自己憐憫で人生が完結しているのだ。そしてその憐れみを共感してくれる者を探し求める。そして共感したが最後、自分も憐れみを求める底辺になり下がってしまう。

自分を憐れむのは底辺特有の意識である。

考えてもみたらいい。
HALOのマスターチーフが、銃が壊れたからと言って「もう人類は終わりだ」と宇宙船の片隅で体育座りを始めたらどうなるだろうか。グラディエーターのマキシマス将軍が、剣闘士の試合で戦車と虎の群れに囲まれたからと言って「コモドゥス陛下万歳」と叫んで剣を放り投げてしまったらどうなるだろうか。

そこで物語は終わってしまうではないか。

個人にしてもそれは同じだ。世界の誰も自分のことなど救ってはくれない。
自分で自分を憐れんだら、そこで自分の物語は終わってしまう。

たとえ粉雪の降るウォール街の裏路地で新聞紙にくるまって震える一夜を明かしたとしても、たとえ5分後に人類を壊滅させる隕石が落ちてこようとも、たとえ降り立った惑星の先に地面に埋まった自由の女神がいたとしても、底辺になりたくなければ自分の物語を終わらせてならない。

自分を憐れむということはそこで物語が終わり、底辺に堕ちたことを意味するからだ。
そして過去の思い出を引きずりながら、死ぬまで蔑まれ続けることになる。


■自分を憐れむヒマをなくそう

どんな人間でも理不尽な目に遭うことはある。
噛み締めた奥歯を砕いてしまうほどの悔しさに身を震わせることがある。

心のどこかに自分を憐れむ気持ちがあることがいけないとは言わない。
自分を憐れむヒマがあることが問題なのだ。
人はどれほど窮地に陥っても生き残る道を模索し続けることはできる。
底辺になりたくなければ、自分を憐れむヒマをなくそう。
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