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底辺が集う場所で花が咲く話題には一定のクセがある。赤ちょうちんの居酒屋にでも入ってみるがいい。100軒いけば100軒とも、そこに集う底辺の話題は政治・スポーツ、そして下ネタと決まっている。

やれ自民党のここが悪いだの、他国の問題がどうだの、選手の体調がどうだのと並べ立てた挙げ句、下ネタに走るのは一種の慣例とも言える。

下ネタはその人間の程度を直接表すバロメーターであるからともかく、なぜ底辺は政治やスポーツを好むのだろうか。政治であればそこに不満があるから、スポーツなら応援しているから、と思う人もいるかもしれない。しかしそれは間違いだ。底辺が政治とスポーツを好んで口にするのは、何を並べ立てようが責任を取らないで済むためだ。

底辺は自他の区別がつかない。たとえば会社の同僚や上司の中には、他人のプライベートまでくちばしを挟んでくる底辺もいることだろう。しかしそれは責任が取れる言葉だと言えるだろうか。

中には例外もあるだろうが、一流の政治家やスポーツ選手が年中そこいらの底辺サークルだのに好んで顔を出すだろうか。たとえ酒にしても、一流のスポーツ選手などは会員制のバーなどを使うことがほとんどだろう。

その理由は底辺の集まる場所にスポーツ選手がいけば、やれお前の打ち方はこうすればいいだの、お前の筋肉の付け方はここが悪いだのと、一切責任を負うことなく底辺どもが言いたい放題始まるからだ。そして万一そんなノイズを聞き入れてしまった日には、底辺は鼻高々で生涯自慢することだろう。もちろんそれで選手が失敗すれば、素知らぬ顔でおしまいである。


■言うのはいいが、どう責任を取る?


自他の区別とは責任の所在を明らかにすることだ。スティーブン・コヴィーの「7つの習慣」であれば、自分が影響を与えられる範囲にのみ終始して生きていく「影響の輪」が責任の範囲である。アドラーであれば「課題の分離」として、物事の結末を見通して誰が責任を負うのかをきっぱり割り切ることである。

もちろん筆者も不完全な人間であり、ときに他者から価値ある助言を頂くこともある。しかしそれは自分が仰ぎ見る価値のある立派な人たちと会ったときがすべてだ。少なくとも底辺の集う場で何かを学べたことは一度もない。

そしてそのような底辺が集うところほど、こちらのプライベートに口を挟んでくることが多い。ただし、そのようなとき自分は「言っていることはわかりましたが、なにか起こった際、その言葉にどう責任を取るのですか?」と言うようにしている。

そう述べると、底辺は面食らった顔をするか、苦虫を噛み潰した顔をするかでそれ以上はまず何も言ってこない。底辺は痛みを嫌う弱虫ばかりだからだ。

もちろん世の中には他人に責任のみを押しつけて自分だけが甘い汁をすすろうとする悪人がごまんといる。そのような者よりは、主観的な善意で口だけの助言を挟もうとする底辺の方がまだいくらかマシだ。

ただし、責任も取れないにも関わらず、相手に一方的にアドバイスをした場合、後で徹底的に追求され、思いもよらない莫大な責任を負わされる覚悟もしなければならない。

周囲や他者の幸福に貢献することはとても大切なことだ。しかし口だけではなく、実が伴わないものは単なる迷惑であり、周囲からの評価が下がることは肝に銘じておくべきであろう。