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■苦しみは誰もが抱えるもの

人生は思い通りにはいかない。これはあらゆる人間がそうだ。

一般的な国民の生活は日を追って苦しくなりつつある。1994年のGDPを100%とすると2016年は88%まで落ち込んでいる。それに加えて社会保険料のさらなる増加や定年退職の年齢延長の義務化、消費税の増税など、あらゆる要素に不安は尽きない。

しかもその税金は日々、オリンピックエムブレムのような利権に垂れ流され続けている。一部上場企業の会社員でもその苦しみは変わらない。

某企業の社員は、取引先の無茶振りのせいで自分は毎日終電帰りなのに、定時帰りの上司はその取引先から目の前でキャッシュバックを貰っているといつもこぼしている。

日々の生活や人間関係でも「なぜ自分だけがこんな目に」と思うことはあるだろう。いじめや暴力沙汰、筋の通らないマウンティングや嫌がらせに巻き込まれることも多いはずだ。

ときには心に長く傷が残ることもあるだろう。


■泣き言をぼやく底辺

しかし、である。
そんなことは誰もがそうだ。

底辺は憐れみを欲する。

以前、飛行機の座席で傍らに座った男に話かけられたことがある。
小さな事業所の社長だった。

はじめのうち、彼は旅行の話題で上機嫌だったのだが、適当に相槌を打っていたところ、なぜかだんだんとテンションが落ちていき、

「私は60歳だ。もう人生は終わりだ」
「私の言うことを社員は誰も聞いてくれない」
「取引先のせいで大変な目に遭った」
「景気が悪いのに税金ばかり取られる」

と始まった。

私は途中で話を打ち切り、そこで背を向けた。
それはきっと本当のことなのだろう。
だが、だからなんだと言うのだ。

底辺は自分を憐れむ。鬱映画のエンディングのように自己憐憫で人生が完結しているのだ。そしてその憐れみを共感してくれる者を探し求める。そして共感したが最後、自分も憐れみを求める底辺になり下がってしまう。

自分を憐れむのは底辺特有の意識である。

考えてもみたらいい。
HALOのマスターチーフが、銃が壊れたからと言って「もう人類は終わりだ」と宇宙船の片隅で体育座りを始めたらどうなるだろうか。グラディエーターのマキシマス将軍が、剣闘士の試合で戦車と虎の群れに囲まれたからと言って「コモドゥス陛下万歳」と叫んで剣を放り投げてしまったらどうなるだろうか。

そこで物語は終わってしまうではないか。

個人にしてもそれは同じだ。世界の誰も自分のことなど救ってはくれない。
自分で自分を憐れんだら、そこで自分の物語は終わってしまう。

たとえ粉雪の降るウォール街の裏路地で新聞紙にくるまって震える一夜を明かしたとしても、たとえ5分後に人類を壊滅させる隕石が落ちてこようとも、たとえ降り立った惑星の先に地面に埋まった自由の女神がいたとしても、底辺になりたくなければ自分の物語を終わらせてならない。

自分を憐れむということはそこで物語が終わり、底辺に堕ちたことを意味するからだ。
そして過去の思い出を引きずりながら、死ぬまで蔑まれ続けることになる。


■自分を憐れむヒマをなくそう

どんな人間でも理不尽な目に遭うことはある。
噛み締めた奥歯を砕いてしまうほどの悔しさに身を震わせることがある。

心のどこかに自分を憐れむ気持ちがあることがいけないとは言わない。
自分を憐れむヒマがあることが問題なのだ。
人はどれほど窮地に陥っても生き残る道を模索し続けることはできる。
底辺になりたくなければ、自分を憐れむヒマをなくそう。